実習の意義20 特論5 ポストの横に「モノづくり塾」を (最終回)3月28日

 私と同年代で職業訓練指導員を退職される方が次々に出ている。職業訓練が一面的な論で批判されている事に、自らが献身している営みに疑問を感じる人がいるようである。職業訓練への批判は一部の人達が誤解しているためであり、その誤解を解く活動をOBの方々にもお願いしたい。それは次代の正常な日本を築くためにも重要であり、後輩指導員への激励にもなるはずである。

 失礼な表現をすれば、OBの中には時間をもて遊んでいる人もおられるのではなかろうか。その時間を次代の子ども達のために、人間形成の王道としての職業訓練のために使って戴きたい。

 「ポストの横に『モノづくり塾』を」は最初からは過大だと思うので、とりあえず、「ポストの横に『モノづくり塾』のポスターを」という気持ちでお願いしたい。近年はポスターを貼るのも難しいかも知れないが、可能性を見いだして、PRして頂きたい。最初は不定期でも良いだろう。夏休み、冬休みに、あるいは日曜に。先ずは自分の孫からでも、一人からでも始めて頂ければと思う。近所の子ども達にも「モノづくり」の楽しさを伝授して頂きたい、と願うものである。

 ある会合で知り合った、さいたま市大宮の「こもだ建総」の菰田さんは、毎年夏休みに「子供工作教室」を開き、もう25回になると言う。「プロの大工さんも応援!!」と鋸、金槌を持参させて、大工仕事の基本を指導されている。学校の工作の宿題のお手伝いかも知れない。現役の大工さんができるのである。OBの指導員の方々ができないことはないはずである。

 子どもの「熟練度」にもよるので、「個別」に課題を提示すべきであろう。先ずは「ワーク・ショップ」のように簡単な手を使うことからだろう。紙・発砲スチロール・木っ端を子ども達が自分で自由に考えて組み合わせ、好きなように加工できることだ。紙飛行機などにも興味有るはずだ。そして、徐々に手ほどきが必要な作業へと発展させて行くことである。

 このような技能はコンピュータゲームとは異なった技能であるが、子どもたちが技能に興味が無いはずはない。要は、課題であろう。興味を持ったり、より上達を願ったら理屈を説明することも必要となろう。安全な方法をきちんと手ほどきすることも大事である。金槌=釘打ち=モノづくり → 鋸=板切り=モノづくり → 鉋=削り=モノづくり、等の順番も工夫して、どのような子どもにはどの方法が良いかを情報交換して欲しい。

 道具は正しく使えば危険ではない。小刀は必需品だ。鉛筆削りから始めるのが良いようだ。竹とんぼは高度な作業だ。私の子供の頃はメジロの巣箱を作るのが最後の課題だったが、私には無理だった。周囲を確認し、両手の動きを確認し、手ほどきしなければならない。手取り足取りが必要である。刃物は危険でもあるが、正しく使えば危険ではなく、仕事ができるようになれば、刃物を人の殺傷のために使うことは無いはずだ(私の子供の頃、喧嘩は良くあったが、刃物を使った者はどんな悪ガキでもいなかった)。

 多くの子ども達を指導すれば個性との関係もわかる。一人ひとりの「技能カルテ」(ジョブカードの子供版)を作成し、子どもの性格・性質と技能の関係を情報交換して欲しい。それは子どもへの技能伝承に役立つばかりでなく、成長記録にもなる。

 ベテランOBであれば言わずもがなことであるが、褒めることは大事である。最近聞いた話では、“ニセ薬”でも「効きますよ」といって与えると大きな割合で病気が治癒するという。暗示が大切である事であり、「上手くなった」と褒める事が重要なのである。

 職業訓練界をリタイヤしてもお元気な方は多々おられるはずである。人生に終わりは無いと考え、次代の子ども達のために技能を伝承して頂きたいと思う。デジタル技術はメモリに簡単にコピーできるが、人間のアナログ技能はその人しか修得できないものなのである。技能無くして最終的にはモノづくりはできないことを考えると、この仕事も極めて重要だと思うものである。このようなことをお願いする意味として、子どもの時から技能が重要なことについて「小学校の数ほど技能塾を」にも紹介しているので参考にして頂きたい。

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 最後に、「実習論」を終わるに当たり、その意図であった「職業訓練の意義」を理解するための立場を再確認しておきたい。その事例として、私がお世話になった佐々木輝雄先生(専門は教育行政学)の言葉を紹介したい。佐々木先生は、亡くなる直前(1985年)の研修講義で次のようなことを話していた(『職業訓練の課題』・金子良事さんの紹介です)。

 私も、随分ひどい事を云われた事があります。ある研究会に出た時に、前は文部省の学校にいたのですが、ひょんな事から訓練大学校にお世話になったんですが、丁度一ケ月に一回やっていて、(転勤後の研究会に)初めて行った時に挨拶がてら、「今度は訓練大学校に行きました」、とこう云ったら、東大のある教授が、「あ、資本家の犬の学校ですか」、とこう云われた事を覚えていますが。……私は東大の先生に、「とんでもございません、東大こそがそうなんじゃないんですか」、と云ったらその先生は黙ってましたけれども。

 上の挨拶が有ったのは私が職業訓練大学校を卒業した1・2年後になるが、私だけでなく、同僚に「資本家の犬」になって職業訓練界や産業界で「資本家の子犬」を育てている者は一人もいない。もう四半世紀前の会話なので、上のようなことを直接に言う研究者は今日ではさすがにいないが、最先端の教育学研究者がこのような考えだったことに唖然として二の句が継げないとはこのことである。佐々木先生は反骨精神に富んでいた研究者だったので、その研究会が反動的・保守的な研究会であったとは思えない(保守的研究者であれば上のようなことは言わないであろうが…)。そのような(民主的な)研究会をリードしていた教授の言葉であったことに驚くのみである。教養も品格もない研究者の典型であるといえる。職業訓練を如何に誤解しているか、同時に教育を如何に盲信しているかということを示している。

 上の東大教授のような誤解が今日の社会の精神的土壌から払拭されているとは言えない。このような精神に対決する視座に確信を持つ必要がある。職業訓練は働く人のための職業に関する能力形式であり、そのために国民から期待されていることを再確認したいと思うものである。

………………………………「実習論」了………………………………………

 実習の意義19 特論4 新理念の課題 3月26日

 不登校者が職業訓練校で皆勤賞をとって社会に貢献し、中退者が自信を取り戻し起業し、在職者が安心して仕事を担当し、失業者が再就職(就社)して家計を支えていること等を支援しているのは職業訓練である。その職業訓練の中核的能力開発の営みが「実習」であることを疑う必要は無い。この実習の意義は、本来の「職業陶冶論」により理論化できるものであった。しかし、わが国の教育学では実習をキチンと定義できていない。ということは、「教育学」にも期待が持てないことを意味している。

 「教育学」は教育に関する学であるが、この原語は"Pedagogy"である。これは、子ども(paid)を導く(agogus)という意である。また、近年は子どもの教育だけでは不十分として大人の教育が問題となっている。その大人の教育である「成人教育学」の語源はアンドラゴジー"andragogy"であり、大人(andraus)を導く(agogus)という意であるという。ところが、いずれも人を導く目標が定かでない。しかし、"Education"であれば概念が明確であるが、「教育」の概念では全く目標が分からないことになる。ここにわが国の「教育学」の問題がある。

 また、これまでの学問は“分化の理論”であった。確かに分化して科学は発展してきた。教育学も今や細分化され、人間をトータルに考えることが困難になっている。教育学と成人教育学に分けることもそうである。しかし、「生涯学習」の時代、子どもと大人を区別する必要はなく、上の両者を兼ね備えてトータルに人の形成を考えるべきである。つまり、人間としての「統合の論」で、子どもから大人までを考えることができなければならないはずである。それに「職業訓練」の意義、「実習の意義」を統合させねばならない。

 さて、宗像元介が述べるように、本来人間は職業的に自立するために「職業志向的である」はずである。この意味では子どもと大人を区別する必要はなく、ペタコジーとアンドラゴジーの両者を兼ね備えてトータルに人の育成を考えるべきである。この論を発展させると、子どもも大人も職業へ導く、あるいは仕事をで人を形成する「学問」になるはずである。

 そこで「仕事」、「働き」及び「活力」の意がある、また物理学のエネルギーや「仕事」の単位である「エルグerg」の語源でもあるergon(エルゴン)というギリシャ語をもじって仕事(ergon)+導く(agogus)⇒ergonagy「エルゴナジー」という理念を提起したい。「エルゴナジー」をあえて日本語で記せば「職能形成学」になるはずである。このエルゴナジーはペタゴジーとアンドラゴジーを包摂するものと考える。諸々の国際規約における職業訓練関係規定と"Education"規定との関係を検討すると、このようなエルゴナジーの理念は当を得ているといえる。

 ここで、「職能形成学」をとりあえず次のように定義する。

 「職能形成学とは、労働者及び労働者になろうとする人の職業的自立を援助する営みである職業訓練に関する学問を言う。」

 「エルゴナジー」は個人の職業的自立を目指した、労働者(学習者)が生き、働き、学ぶことを支援する営みである、としたい。「学習」の意味が、本来自立する職業的内容を含むとする理解が常識化すれば、下線部の説明はやがて不要となる。

 最後に、エルゴナジー「職能形成学」を誰のために確立しなければならないのか、という視座である。このことを明らかにしておきたい。職業訓練の受講者は新規学校卒業者であり、在職者であり、離転職者・失業者であり、そして障がい者である。これらの受講者のために「エルゴナジー」が必要なのである。

 (次回は最終回で、「ポストの数ほど「モノづくり塾」を」です。)

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 実習の意義18 特論3 「品格」とは何か 3月24日

 最近、横綱の「品格」が騒がれた。『広辞苑』は「品格」を「①物のよしあしの程度。しながら。②品位。気品。」と定義している。①は物であり、人に対してのことではないので、問題となっている「品格」のことではない。人の「品格」は明らかに上の②を意味しているが、定義と言うよりも同義語だと言えよう。従って②は、何も説明になっていないといえるので、「横綱の品格」にあてはめても『広辞苑』では曖昧模糊となる。

 ここでは、前回の「教養」論との絡みから考えてみたい。「品格」もまた、一人ひとりに備わるものとして有るはずだ、と考えるからである。だから「横綱の品格」のように横綱に求められたのである。

 「品格」とは一言で言えば、「態度として表れた教養である」と考える。つまり、横綱としての備えるべき教養を態度として表すことが、横綱の品格だと考える。その横綱の教養は力士の教養の上にしか積み上がらない。力士としての教養が欠けていれば態度に表すことは困難だ。朝青龍の場合、(外国人だったため、日本文化に馴染むのに時間が掛かるというハンディがあったが)横綱への昇進が短かったため、力士(専門職の一つ)としての教養を学ぶ期間が短かく、あるべき力士の品格もまた表せなかったのである。朝青龍の土俵の態度は、子どもが闘士をむき出しにして試合に臨む姿勢であった。それが人気にもなったが、批判の対象ともなったと考える。

 さて、職人の場合、昔の徒弟制度は一人前になるのに最低でも10年が必要だ、という慣習は、充分にその間に職人としての教養を身につけられる期間であった。そして、さらに親方になるための修養の期間がある。その修養の期間は、職人、親方としての品格をも身につけることに充分であった。

 同じ職業人を養成する職業訓練校の場合、徒弟制度よりも極めて短いため、職業人としての態度の形成のために口うるさく指導員達が説教することになる。職業人としての態度をきちんと持ち、態度に表して欲しい、との期待からであることは当然である。この意図は、社会人、組織人としての態度の形成のためである。

 ただ、行き過ぎれば、個性を無視した「型にはめる」強制になる危険性もある。この「型にはめる」と「態度の形成」との境は何か、が問題となる。それは仕事(専門性)の修得度と関係する。すなわち、仕事が身に付く前に説教しても無駄であり、仕事と併行して職人の教養を諭すことが重要になるのである。「職業人生活の指導」として、実習の中で仕事に関する品格を指導することは困難ではない。

 この意味で、専門の教養が最も分かりにくいのが研究者の場合である。前回紹介しなかった『新明解国語事典』は「教養」の②として「(自己の)専門以外に関する学問・知識。」と定義している。この意味で考えると、研究者の場合は専門が教養と同じ内容となる。そのため(近年は少なくなったが)研究者の場合、一般の職業人のような教養にならないのである。

 職業人はその職業の専門を究めていく過程で、必要な教養を修得し、その教養を、そして態度を自然に身につけるのである。その自然な姿を表すから、職人の仕事を他人が見ていて、美しく、感動するのである。それは職業人の個性でもあり、品格でもある。「頑固な職人」とは、仕事一徹の、仕事以外のことは考えない職人、という意味でもある。

 誰も真似ることができない技量を持つ職人であるから皆に認められるはずである。これが職人気質であり、職人の品格である。

 (次回は「特論4 新理念の提言」です。)

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 実習の意義17 特論2 労働者に教養は身に付かないか 3月19日

 前回論じた言葉の再検討に関連、「教養」という言葉についても検討したい。すなわち、「教養」も教育と密接な言葉であるからである。わが国の教育は普通教育偏重になっている事は誰でも認めるところであろう。この普通教育偏重は行き着く所「教養」に連なっている事も事実である。大学での教養部は解体されたが、大学で教養志向が無くなった訳ではなく、排除されたわけではない。本稿の「実習論」はその教養論=普通教育に真正面から対抗する論として始めたいきさつもある。このように考えるのは、よく「教養の無い職人」というような言葉や解釈を耳にするからである。教養は働く労働者の職業能力とは無縁な、あるいは反することなのだろうか。しかし、優れた職人に出合ったという話は幾らもある。職人が持っている、普通の人間が持たない素晴らしい人間味とは何なのだろうか。つまり、職人には「教養」は無いのか、そもそも「教養」とは何かを考えねばならない。

 「教養」を『広辞苑』は「①教え育てること。②(cultureイギリス・フランス;Bildungドイツ)学問・芸術などにより人間性・知性を磨き高めること。その基礎となる文化内容・知識・振舞い方などは時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。」と定義している。

 まず、「教育」の定義と同じ定義をしていることが特徴である。「人間性・知性を磨き高めること」と言えば、そのことは誰にでも同じ内容ではないことが分かる。貴族のような階級や知識人だけが持つものではない、と言ってもよい。当然ながら特定の人でなければ職人が入る。職人に教養があっても可笑しくないとする定義となる。今までの「教養」はやはり歴史的には貴族の教養であり、そのような「上から目線」の教養論だといえる。

 また、研究社の『新和英大辞典』(第5版)は「教養」を「culture;education; caltivation」としている。このように「教養」は英語では先ずはカルチャ- cultuerだ。カルチャ-はカルチベーションcultivationと同義語である。"cultivate"は耕すこと、己を耕し対象を耕すことである。そして「教養」は"Education"だ。"Education"は能力を開発することだった。自分の能力を開発することは、能力を耕すこととである。"Education"の定義に"cultivation"で説明している英英辞書もあることと関係する。

 このように、日本語の「教養」は明確に対応する英語が無い事が分かる。このことは、王智新氏が明らかにしているように、「教養」が明治期に日本において作成された用語であるためである(『教育と学校をめぐる三大誤解』参照)。あえて言えば"Education"と同義である。

 上のような教養は人によって違う筈であり、何人も同じだ、という見方ではない。「人間性・知性を磨き高めること」と言えば、一人ひとりの仕事から滲み出る人間性、仕事に必要な仕事に関する知識の筈である。すると、教養は職業に付随することであり、職業人の数だけ教養はあるはずである。

 職人が新しい機械を使いこなすことも教養だといえる。教養は修養なしに身に付かないはずである。徒弟制度で育っても自らの仕事に関する知識を正に“自己啓発”で修養していくのである。「職人気質」とはその職人の表す教養を意味しているといえよう。

 「教養」の言葉も誤解に満ちており、再検討すべき言葉の一つだといえよう。教養とは、働く人が仕事に関して身につけている知識だといえよう。

 (次回は「特論3 「品格」とは何か」です。)

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 実習の意義16 特論1 言葉の再検討 3月15日

 教育学研究者の実習の定義が不充分である事は、「教育」概念の誤解と密接な関係があると思われる。『教育と学校をめぐる三大誤解』に詳しく述べているので再論しないが、「教育」の言葉を用いるのに「学校教育」がもっとも相応しくない事が分かる。逆に、教育学研究者が忌避する「企業内教育」、或いは「軍隊教育」の使用法が最もふさわしいのである。このように、わが国における「教育」を巡る誤解が溢れている。実習を正しく理解して貰うためにもいくつかの言葉の使用についての問題を記しておきたい。

 先ずは「勉強」である。この英語を"study"としているのは日本であり、中国の理解は異なる。例えば「中英辞典」では①pushoneself hard, ②force、③"reluctant"である。これらの意味は関西で商売の掛け声として使われている「勉強しまっせ」の意である。そのような勉強がどうしてわが国のような意味になったのか、である。

 それは、「勉学」の代用とされた経過がある。江戸時代まで「教育」はほとんど使用されていず、類似の言葉は「学文=学問」だった。つまり学問に努力する事として「勉学」が尊ばれた。明治5年に制定された最初の教育法である「学制」は「がくもんのしかた」とふりがなが振られ、「学校」には「がくもんじょ」と振られた。この頃までは勉学が"study"だった。ところが、「学制」を改めて明治12年に「教育令」が制定されると、国民に勧めることが勉学では可笑しくなる。国民の子弟に勧めることが「勉教」ではおかしい。なぜなら、教育に務めるのは政府であるからだ。そこで、中国にあった同じ発音の「勉強」を借用語として日本的な意味を持たせたのである。国民が教育に務めることはおかしなことである。今でも国民の立場からは勉学であろう。あるいは学習であろう。それは自立するために必要な能力を修得するためである。

 その「学ぶ」の意味はどのようであったのだろうか。小原哲郎教授によるとその語源は「まねる」だったという。「まねる」ことの今日の対象は歌や踊りであろうが、文字のない時代である。自給自足の生活をしていた時代、大事なことは衣食住の仕方を親が子に教えることであり、子は親の真似をして仕事を覚えることであったはずである。

 そのような「まねる」が「まねぶ」となり「まなぶ」となったという。その「まなぶ」に漢字の「学」が当てられ、「学ぶ」になったのである。「学ぶ」の内容には、歴史を遡れば仕事が入っていたはずなのである。

そして、講義を学ぶことを「授業」を受ける、というが、これも良く見ると不思議な言葉である。「業」を「授ける」となっているのである。これは漢和辞典をみれば明らかであるが、やはり、本来は生計のための業を授けることだったのである。ものごとを伝えることは本来は仕事や職業に関することだったのである。

 このことは英語の"Education"も類似している。英英辞典で"Education"を引くと、国語事典の「教育」のような説明は無い。能力を開発する意味である。その「能力」には当然ながら労働や職業に関する能力が含まれる。知識だけでなく実習のような経験も包含されるのである。"Education"は江戸時代の「学問」に通じるのである。

 能力を開発することで類似した言葉に"training"がある。"train"には自動詞と他動詞がある。「訓練する」にも他動詞と自動詞がある。"selftraining"は学習と大差がない。しかし、「教育する」は他動詞のみである。教育は自立のためではなく、(善悪は別として)他人を意図をもって変化させることである。実習はその能力を受講生が自らの活動によって収得しなければならないのであり、自動詞の訓練が重要な学習になることが分かるのである。このような職業訓練と職業教育とは職業で隣接する。

 その「職業教育」はわが国では認識が低い。その反面職業教育に対置する「普通教育」を信奉している。それでは 「普通教育」とは何か、が問題となるが、この言葉も極めて日本的である。この言葉の適切な英語もなく、意味も明らかではない。この言葉も明治期に創られた言葉であり、お雇い外国人のフルベッキが示唆した"populareducation"の意味を日本的に解釈したようである。このことについては近く発行される紀要に「用語『普通教育』の生成と問題」に記してている。

 以上のように、わが国では教育を巡る様々な誤解が職業訓練、実習を軽視、ないし無視する要因になっているのである。これらを再検討しなければ、今日叫ばれている「学校と社会との接続」の正しい解決は困難だと言えよう。

 (次回は「特論2 労働者に教養は身に付かないか」です。)

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 実習の意義 15.実習中核のカリキュラム編成論 3月14日

 次代の若者には創意工夫が期待される。しかし、テキストを中心とした教育では創意工夫が育つはずがない。発明発見をした偉人の伝記を読めば明らかである。

 創意工夫には五感が育ち、新たな発想(第六感)が浮かばなければならない。このような創意工夫を育てる原初は遊びである。何故なら遊びは五体と五感を使うからである。遊びは子ども時代の遊びであるのは言うまでもない。遊ぶ事がコンピュータゲームだけだと、五体と五感の全てが育たないのも当然である。そのような子は実習を上手く出来ない可能性が高い。近年はそのような子が多いようであるが、そのためにもカリキュラムが重要になる。いきなり技能が必要な作業をさせては駄目である。

 教科書を1年間続けることによって、結果的にカリキュラムになる、というわが国の学校教育の場合は極めて困難なことが分かる。すなわち、1枚の時間割がカリキュラムなのだ。つまり、わが国にはカリキュラム研究は文献研究を除けば無い、といえるのである。背景には「学習指導要領」の押しつけがあるからである。

 このようなわが国の特殊性は、子ども達の「興味有る事から始める」という教育の原則さえも最初から不可能にしている事が分かる。実習は若者の自立を促すためにも重要であり、また、上手に編成(準備)すれば子ども達はたちまちに興味を持ち、意欲を高める学習である。その実習を工夫してカリキュラムに設定する事はわが国の学校教育では不可能なのである。

 しかし、職業訓練においては実習は不可欠の内容である。実習を行わない職業訓練では職業訓練の意義も無くなるともいえよう。

 カリキュラム研究は文献研究 を除けばわが国には無いと言ったが、例外が元木健先生が研究・体系化されたラウンドシステムである。これは図のように、一般に基礎を広くと言う円錐型とは逆の「逆円錐型」のカリキュラム論である。つまり、「実践」Aを中核とする「実技中核のカリキュラム」論といえる(『技術教育の方法論』開隆堂)。Aは実際に行う活動、Bは関連知識の学習、Cは理論・法則の学習である。

 指導の順はA1→B1→C1→A2→B2→C2→A3と進んで行く。次第に学ぶ内容が広がっていく事がわかる。その最外縁に共通・教養的知識が包むという構想である。元木先生の研究は実験的レベルで終え、わが国の学校教育に取り入れられることはなかった。これこそ職業訓練のカリキュラム原理といえる。

 このラウンドシステムは、単独の職能の場合は極めて有効である事が分かる。しかし、職業訓練のように職能を組み合わせた極めて幅広い職業についてのカリキュラムには応用が困難である。

 特定の職業であっても、その職業全体を能力開発するような長期的な教育訓練の場合はドイツ等で実践されていた「期間教授法」が有効である。その考え方を図示したのが次の図である(『範例方式による授業の改造』明治図書)。図のように、一般の学校における時間割は①が1枚作成され、授業が年間を通じて同じ時間割で進められる。これでは各科目間の関係は不充分であり、個別の科目が1年間別々に進んでいるだけである事がわかる。学ぶ者の立場でそれぞれの内容を解釈しろ、という方法である。


 「期間教授法」は②「理科」中心の時期→③理科と歴史中心の時期→④地理中心の時期→⑤歴史中心の時期と進んでいくのである。中心とする科目が主要教科で有るべきという事ではない。中核科目が農業であっても可能である。農業に関連した理科、算数、歴史、社会をその時期では教授するのである。同じように、どのような職業であってもかまわない。この理論はシュタイナー学校にも応用され、個性豊かな人間を育成すると言う事で有名であるが、わが国では「学習指導要領」にそぐわないため、認可されていなかった。

 この期間教授法のように、中心科目を変えていく方式は、職業訓練の場合、このような時間割を年間に数枚作成する方式を実施してきたので、分かり易い。訓練職種のなかの職務を各期に当てはめて考えることが可能となる。その時、その実習に関連した学科を同時期に編成することに気を配れば良いのである。

 そして、そのような期間教授法とラウンドシステムを組み合わせる事により、実習中核のカリキュラムが編成できる。

 実習中核のカリキュラムは、極端にいうと、入学式の直後から実習場において実習を始めることになる。実習により興味・関心を高め、意欲を高めるのである。実習中核のカリキュラムの神髄はここにある。

 本稿に関しては『職業訓練原理』にも述べています。

 (次回は「特論1 言葉の再検討」です。)

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 実習の意義 14.「実習」とは何か 3月12日

 この実習論は、「はじめに」で『教育学大事典』の定義を批判して始まった。これまで様々な角度から実習の意義を述べてきたが、読者にはご支持頂ける部分も有ったと思う。ちなみに、「職業能力開発促進法」では「実習併用型職業訓練」の言葉はあるが、「実習」の定義はしていない。また、「職業能力開発促進法施行規則」では「実習併用型職業訓練」の説明で「実習等」の説明として「職業訓練及びこれを行う上で必要となる実習」としているのみである。これでは実習が職業訓練の実施に必須だ、としているのみである。法令なので良いのだろうが、職業訓練を実施する上で実習が如何に重要な意味を持つかは分からない。

 それでは、これまでに述べたきた実習の意義をまとめて、私の実習に関する定義を次に記す。

┌───────────────────────────────-─────┐
│実習とは、五体と五感を使って、現実の物事に働きかけ、その反応を感じ取り、働き │
│かけている過程で自然や人間の諸関係に関する知識、技能、態度を総合的に習得す │
│る学習である。                               │
└──────────────────────────────-──────┘

 上に記した私の定義の意味を簡単に紹介したい。

 「五体と五感」といえば障がい者に対してはどうする、との疑問が直ぐに出る。障がい者の場合、五体と五感の残存能力の活用で可能な職業の能力開発を目指したり、不足する能力の補助具等の開発を行う事が能力開発と同時に求められる事になる。

 「現実の物事」とは、材料、道具、機械、そして協同して仕事を進める同僚である。それらのモノ・者に働きかければ、「作用・反作用の法則」による反応がある。そ反応を感じ取る事が重要なのである。その「感じ取り」にはテキストにない実習をしている本人しか収得できない知識となる感覚がある。職人の「勘」でもある。その感覚が新たな創造性を発揮する元となる重要な知識となる。刑事ドラマでは場合、これを「第六感」と言っているのである。実習は五感を研ぎ澄ます訓練にもなるのは当然である。

 また、その「働きかけ、その反応を感じ取」る過程において、仕事に対する態度を学ぶことになる。その中には、協同者との相互の仕事の協力関係がある。これは組織人としての人間関係のあり方についての学びともなる。この時、協同者とのコミュニケーションが求められ、その重要性が理解できるはずである。実習を上手くするためにはコミュニケーションの向上にも努力しなければならない事に気付くはずである。これは、知識の学習では困難な態度の学習の基本として学べる事である。

 そして、「知識、技能、態度を総合的に習得する学習」である、としているように、単に技能のみでなく、「知識」も習得することが実習の意義として重要なことがわかる。この知識が、新たな創意工夫の経験智として働き、テキストにない次の発明・発見の源になるのである。

 このように、人間の持っているほぼ全ての能力を使わねばならない学習が実習である。人間の能力を全て使うから人間としての実感が沸く。実習は人間的な活動だから楽しいのである。

 以上のように、実習は知識の学習に勝るとも劣らない重要な学習であることがわかる。

 ところで、技術が日々進歩する今日、デジタル技術の修得も必要だが、最終的な判断は人間が行わねば新製品はできない。デジタル技術でモノを作っても、その正否を握っているのは人間であり、最後はアナログ的評価にならざるを得ないため、五感が重要なのである。人間としての社会を継続させるためには、アナログの判断が重要なのであり、アナログ的感覚に帰結する上でも実習は重要である。つまり、体を使ったアナログ的感覚が必要であることを理解しなければならない。

 そのような「総合的な学習」が実習である、という考えである。不評をかった「総合学習」も発想としては良かった。しかし、その実施を現場教師に任せ、“勝手にしろ”風の指導が教育現場を混乱させ、ひいては「学力低下」の合唱の下、「ゆとり教育」の申し子であった総合学習は忘れられようとしている。実習の計画はテキストを進めるようには簡単ではないのである。

 実習は若者の自立を促すためにも重要であり、また、実習の特長を生かして上手に編成(準備)すれば子ども達はたちまちに興味を持ち、意欲を高める学習である。次回はその実習のカリキュラムの編成についての考え方を紹介したい。

 本稿に関しては『職業訓練原理』にも述べています。

 (次回は「実習中核のカリキュラム編成論」です。)

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 実習の意義 13.実習は「職業陶冶」論の典型である 3月8日

 今までに述べてきたように、社会が必要とする人材は仕事の中で育てられた。わが国では普通教育が余りにも蔓延しているため、教育論としては「一般陶冶論」しか見えないかのようである。しかし、これに対する論として仕事=職業が人間を形成するという「職業陶冶論」が「一般陶冶論」と共に二大陶冶論の一つとしてあったのである。

 『社会契約論』で有名なルソーは、『エミール』で人間形成論の重要な提言をしている。すなわち、「わたしはどうしてもエミールになにか職業を学ばせることにしたい」。それは「体質を強め健康を増すために手の労働と肉体の訓練が有効であることをながながと証明するようなことは」必要ないからである。その具体的対策としては「かれを親方に仕立てあげるために、いたるところで徒弟になるがいい」としている。その目的を、「私たちは職人修業をしているのではなく、人間修業をしているのだ」としている。そして「かれは農夫のように働き、哲学者のように考えなければならない」。なぜなら「働くことは社会的人間の欠くことのできない義務だ」からである。そして、ルソーは貴族の子弟も職業を学ぶべきとし、貴族は職業を学んでいないことを批判している。

 『エミール』を具体化し、実践したのがペスタロッチーであった。ペスタロッチーは傭兵による出稼ぎで国の財源を支えていた貧しいスイスを、技術・技能が重要として子ども達に職業教育を施す事により、スイスの発展の基礎を築いたのであった。高級時計がスイス製ということは、ペスタロッチーの恩恵に依るともいえる。

 スイスが技術的にも繁栄していることに注目したのが世界的な歯車の研究者である職業訓練大学校の初代学校長の成瀬政男先生だった。成瀬先生はスイスの技術・技能の高度化の要因にはペスタロッチーがいたことに注目し、ペスタロッチーの研究者としても名を馳せることになり、『教育の聖者ペスタロッチー』も著されている。

 ところで、戦後はアメリカの哲学者デューイの『社会と学校』の学校論が紹介され流布した。その中で、デューイは仕事の経験が子ども達を成長させる事を強調し、様々な仕事の実践を説いた。しかし、デューイの理論は経験主義として批判され、教育界からは忘れられる事になった。

 このような実践を重視する哲学者はわが国にもいた。山田正行氏が『非「教育」の論理』で紹介する三木清の恩師であり、日本哲学界の偉人である西田幾太郎が「教育は現実のプラクティスから出立すべきである」 と主張していたという。この主張は、職業訓練を担当し、実習を重視する我々にとっては大きなエールであると思う。西田の論はやがて宮原誠一の「生産主義教育論」に連なる事を山田氏は紹介している。

 戦後の教育学の指導者の一人宮原は「生産主義教育」論を主張した。そして「全ての教育は職業を目的とする教育と考えたいのです。職業教育すなわち人間教育です」と主張した。しかし、この論も次第に忘れられた。その背景には、科学主義の立場からの批判とともに、経済成長に酔いしれて、職業教育は貧しい者のため、というような偏見が漂ったのではなかろうか。その風潮に正しく理論を構築できなかったのではなかろうか。

 以上のような先達達の偉業が正しくわが国の教育界に根付いていないことには、ドイツ教育学を学んだ初期の誤解が有ったようである。佐々木英一氏が『非「教育」の論理』で紹介しているように、ドイツの人文主義学者フンボルトの理論を誤解しているという。フンボルト論を教育学外の研究者、経済学者も引用し、日本の教育論の間違いを誤解したまままき散らしている。しかし、佐々木氏によると、フンボルトは職業陶冶論を否定したのではなく、「本当の一般陶冶は職業陶冶をもって初めて完全なものとなる」と解されるからである。このような一般教育論の誤解を解く事も緊要である。

 「非教育」には賛同されていないが、職業陶冶論の系譜は宮坂広作氏が同上書で「教育概念と教育改革」に簡便に纏められているのでご参照頂きたい。

 (次回は「実習とは何か」です。)

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 実習の意義 12.近代化を支えた職人は誰が育てたか 3月6日

 浮世絵が印象派に影響を及ぼしたが、開国前後にわが国に来た外国人がわが国の手工業にも驚嘆の言葉を残している事は各種の伝記等に明記されている。「龍馬伝」では強圧的な面が強調されているペリーも、わが国におけるモノづくりの技術・技能の水準の高さに驚嘆していたのである。このことは「種子島」をわが国で独自に発展させた職人達がいたことからも分かる。幕府が武器の製造を禁止した事と鎖国とにより技術・技能の発達が止まったのである。しかし、職人=人間の開発意欲が停止するわけはなく、それは工芸品に向けられ、和時計の中には世界に誇る正確な万年時計も作られた。

 現在の東芝の前身である田中製造所を創立した田中久重は、“からくり儀右衛門”と呼ばれた有名なからくり人形の職人だった。田中は鍋島藩に乞われて火術局・製煉局という製造所(研究所)をつくり、ロシア軍艦上でただ一度見ただけで1年後には日本最初の蒸気機関車を製作し、鍋島藩の庭で動かし運転に成功した。田中は東洋のエジソンとも言われるほど発明・発見をしているが、その基礎は当然ながら「からくり」製作の知識・技術の応用だったはずである。近代の土台を築いた人は江戸時代の職人の創意工夫だったのである。仕事=経験=実習が人づくりを果たしてきたといえる。

 このことは現代に通じている。旋盤工作家として有名な小関智弘氏が『仕事が人をつくる』 (岩波新書) で「人は働きながら、その人となってゆく。人格を形成するといっては大袈裟だけれど、その人がどんな仕事をして働いてきたかと、その人がどんな人であるのかを、切り離して考えることはできない。」と述べているように、人間の成長、発達は仕事によって大きく変わるのである。

 近代化=技術革新は具体的な新製品を作る機械を作ることから始まる。その新しい機械は職人の手に寄らねばできないのである。工作機械を作る機械をマザーマシンと言うが、そのマザーマシンを作るのは機械ではなく、職人なのである。新たな仕事が職人の技術・技能を高めるのである。

 そしてまた、上のようなことについて正信寺を建造した小川三夫は、技の伝承とは本物を作ること、という。技の伝承のためには「モノをつくることよ。そしたら200年後ぐらいにこれを解体した時に、あー、こういう考えで作ったのだな、と分かる。それが伝承だと思う。」と述べている(東京テレビ「時を紡ぐ師と弟子」)ことに通じる。人間の歴史は人の歩んだ足跡であり、それは人が為した仕事の経過でもあるのである。

 このように、働く人=職人=人材を育てたのは仕事である。仕事と実習とを区別する事は不可能に近い。にも関わらず、今日では実習や仕事の経験があまり尊重されない。この背景には、近代化のもう一つの重要な要素である“人権”、特に労働権がわが国では正しく理解されず、「教育権」の陰に追いやられたためと考えるが、このことは「教育を受ける権利の精神と問題」を参照頂きたい。

 本稿に関することは『仕事を学ぶ』にも簡単に紹介しました。

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 実習の意義 11.徒弟制度の仕事は実習でもある 3月7日

 第9回で紹介したように、徒弟制度についての孟子の格言と、現代に息づく鵤工舎における弟子の指導についての考え方には共通する思想があった。しかしながらわが国の徒弟制度に対する評価は複雑である。と言うより偏見もある。

 徒弟制度を法律に盛り込んだのは1916(大正5)年の「工場法施行令」であった。戦後、「工場法」は「労働基準法」に引き継がれたため、徒弟の養成=新入社員の養成ということで、企業内訓練に関する規定は「労働基準法」に明記された。しかし、そのタイトルは「徒弟の弊害排除」であった。戦前の徒弟制度の問題を排除すべきことは分かるが、このタイトルでは徒弟制度の人材育成=職業訓練的側面も「盥の水と一緒に赤子を流す」ようなものである。この背景には、GHQが民主化策を進めたため、このことをおもんばかって徒弟制度は封建的だとして忌避したわが国官僚・知識人の不見識を表しているとしか思えない。何故なら、平沼高氏が『熟練工養成の国際比較』で詳しく論じているように、アメリカにも徒弟制度の法律は戦前から有ったからである。問題は今日の「労働基準法」にも上のタイトルが付いたままであることである。これでは、仕事を修得するという営みを忌避することを法律が薦めているようである。

 このような実情に対し、ILOでは1939(昭和14)年の「職業訓練に関する勧告」において次のように定義している。

 「徒弟制度」と称するのは,使用者が契約により年少者を雇用すること,並びに予め定められた期間及び徒弟が使用者の業務において労働する義務ある期間,職業のため組織的に年少者を訓練し又は訓練させることを約束する制度を言う。

 上のように、徒弟制度はまさに職業能力の修得のための制度だといえる。このような思想の基本は現代にも連なり、今日の各国の職業訓練・学校制度に反映している。ドイツを中心としたデュアル・システムは学校と徒弟制度との二元制度として整備されている。このデュアル・システムは、見習工養成の職業訓練であるが、企業の現場での職務が公的な教育として認定されているという学校でもある。徒弟制度はアメリカを含め洋の東西の国に無い国は無い。

 見習工は社員ではなく、契約による訓練生であるが、その訓練過程で一人前の職業人に育成されるわけである。このことは、企業が見習工養成という人材育成として、国=社会に大きな貢献をしていることを示している。この「社会的貢献」の精神なくして、一方、企業内教育を人材育成のシステムと認めることなくしてデュアル・システムは成立しない。

 「ドイツ基本法」(憲法に相当)には第12条[職業の自由、強制労働の禁止] において「すべてのドイツ人は、職業・職場及び職業教育の場を自由に選択する権利を有する。」と規定している。この「職業教育の場」がデュアル・システムの職場を意味していることは明らかである。

 デュアル・システムを見倣い、わが国でも「日本版デュアル・システム」を2004(平成16)年より3年間試行し、その成果の上に法を改正して「実習併用職業訓練」を整備している。本場に比べれば問題もあり、社会的に認知されていないが、従来の職業訓練に比べ、若者達の企業における職場実習に対する好感度と意欲は高く、また、当然であるが就職率も高い。

 デュアル・システムは現場の仕事を教育とも見るのであり、これを実習といっても良いだろう。近年、社会的状況を反映して文科省でも学校でのインターンシップを推奨している。これを見倣って厚労省もインターンシップという用語を使うようになったが、元より職業訓練で利用していた実習を用いて「現場実習」と言えば良いはずなのに、何を意図して後塵を拝するのか理解できないところである。

 職業訓練は実習を重視してきたのであり、「現場実習」は分かりやすい言葉である。そして、この意味を真に理解しようとするのであれば、徒弟制度をキチンと評価しなければならないはずである。このことは「これからの職業訓練のあり方」にも簡単に記しました。

 次回は「実習は「職業陶冶」論の典型である」です。)

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 実習の意義 10.「勤労の尊重」では実習は尊重されない (3月2日)

 「教育基本法」には「教育の目標」として「勤労を重んずる態度を養うこと」が明記されている。わが国の教育界では「勤労の尊重」の意味に余り疑問は起きないようだ。

 「勤労の尊重」は、簡単に言えば、子ども達に“働くおじさんご苦労様”の精神を養えば良い、とする教育目標である。子ども達が学校を終えたら働かねばならないということ、働くために学ぶのだということを理解して、職業能力を学ぶことではないのである。それでは進学の意識とその受験技術は養えても、就職しなければならないという意識、就職のためには職業能力を修得しなければならないという意識が希薄なまま学校を終えるのは当然である。

 3年前に改革される前の旧「教育基本法」には「勤労の場所における教育は奨励されなければならない」が明記されていた(この問題については紀要拙論を参照)。この規定は企業内教育を奨励する、と言う意味である。換言すれば仕事を覚える事は学習であり、その学習を教育とする考えである。仕事を覚える学習は実習と言っても良いはずである。この具体策として、昭和23年に教育刷新委員会は政府に対し、職業訓練生に「大学へ進みうるために、単位を与える」べきことを建議した。しかし、文部省はこの実施を拒絶したが、建議は生きていた。その規定は、従来の教育と職業訓練とを結ぶ可能性のある糸であった。しかしながら、新「教育基本法」からは「勤労の場所における教育~」が削除された。このことは、上の建議が完全に失効した事を意味している。学校教育と職業訓練とを結ぶ糸が完全に焼失(消失)したのである。

 新「教育基本法」には旧法のままの「勤労の尊重」が残り、一方、旧法にあった「勤労の場所における教育は奨励されなければならない」は削除された。「キャリア教育」や「学校から社会への接続」が教育界では叫ばれている。しかし、教育問題の根本を改革しない、「働くため」ではない「勤労を尊重」する目標のままでは新たな標語は表層的であり、その真剣味も伝わらない。実習が重要な意義を持つとは考えられていない、としか言いようがない。

職業能力を修得しなければならないという意識が希薄であれば、そのために実習が重要な意義があることについて考える事もないだろう。下手をすると、進学には関係ない実習は、社会で役立たないことをやっている、との負の意識が育つかも知れない。

 言うまでもなく、実習は本人が自分のために実際に学び、努力する事である。他人のために努力することではないことを確認しなければならない。それは仕事のためになるからである。このことに関して「勤労」の言葉が問題となる。なぜなら、戦前に国民を奴隷のように使用した「勤労動員」や「勤労報国」にあったように、「勤労」は自分のためではなく、国やお上に捧げる労役だったからである。この言葉が「日本国憲法」にも使われているが、その英訳は"work"であり、"work"をわざわざ「勤労」という必要はないからである。勤労は自分のために働く事ではないのである。しかし、実習は自分自身の能力を高めるための経験であり、勤労の言葉には馴染まないのである。

 実習が、人間形成にとって重要な役割がある、という理念に基づく法体系が望まれているのである。

 (次回は「徒弟制度の仕事は実習でもある」です。)

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 実習の意義 9.技能の刷り込みは出来ない 2月28日 

 実習は創造性を生むために重要な経験のプロセスでもあり、重要なテーマである。それではそのように重要な実習を強制すれば、訓練生は創造性を発揮できるのであろうか。それは否である。技能の習得は教育のように強制できないからである。実習の第一の意義である技能の習得は、ではどのようになされるのか、と言うことが問題となる。つまり、技能は教えられるか、どのように教えるのか、ということです。

 一方、知識は教えることは可能であり、刷り込みができ、「教化」という言葉が極めて近い意味を持っている。その「刷り込み」については「教育勅語」の原案を作った元田永孚が頭をよぎる。元田は「幼少ノ始ニ其脳髄ニ感覚セシメテ培養スル」と言ったのである。つまり、知識を教化することを意図したのである。それは祝詞のように覚えさせる事である。このように「教化」と意図的な「教育」との厳密な区別は極めて困難である。しかし、実習による技能の習得のためには教化のように刷り込む事は出来ない。

 法隆寺最後の棟梁であった故西岡常一氏は弟子の小川三夫に「教えないことが最も良い」と言っていた。それを小川三夫も納得している。西岡は孫弟子達に「親方に授けられるべからず。一意専心親方を乗りこす工風を切さたくますべし」と激励している(『木のいのち 木の心』)。小川が弟子に指導するのも例外的な場合のみである。そのような「教えない方法」で、どうして伝統的な寺社が建造されるのであろうか。弟子はどのように技術・技能を修得するのであろうか。

 小川と弟子達は、今後これほど大きな木造建築は建てられないと言われる正信寺を創建したが、その現場監督は若干27歳の大野君だった。その現場に小川さんは時々見回りに来るだけである。弟子達は、親方に教えられることなく仕事をしていくのである(東京テレビ1995.6.21.「時を紡ぐ師と弟子-斑鳩の里の宮大工-」)。勿論、経験の差は仕事の早・遅になる。遅い者は先輩の仕事を見て、より正確に、より早く出来る方法を工夫する。仕事の能力向上は本人の努力しかないのである。

 かって孟子は「上達と下達」において、「大工等の親方は弟子に規矩や定規の使い方を教えることはできるが、弟子の腕前を上達させることはできない」と述べていた(岩波文庫『孟子(下)』)。ここに弟子が技能=腕前を上達させることは親方や指導者ではない事が明言されている。技能=腕前の上達は本人の意識的な努力、創意工夫によるしかないのである。

 このことは、換言すれば「自己訓練」という言葉であらわされる。英語で言えば“SelfTraining ”である。つまり、「訓練」には自動詞があり、この自動詞としての訓練により技能=腕前は上達するのである。したがって、実習における訓練の意味は、訓練生、受講者のこの「自動詞としての訓練」を如何に支援し、援助するか、と言う事になる。実習の訓練とは訓練生が「やる気を起こす」ようにすることが課題なのである。

上のようなことは、里見実氏が「非教育の可能性」で紹介しているジョン・ホルトが主張する「為す事によって学ぶ」ということにも通じる。“Learningby doing”と言っても良い。いずれにしても、技能=腕前の修得は本人の努力の成果なのである。芸術家やスポーツ選手の努力も同じである。換言すれば「学習」は本人が経験を積み上げねばならないことなのである。

一方、教育には自動詞はない。教育は「教えること」なのである。このため、「学習を助ける事が教育だ」というレトリックが使用される。「教育」と「学習」とは全く異なる言葉である。このような素人を煙に巻く教育論は、働かねばならない人のためにはならないと思う。「教育」は強制するにしろ、しないにしろ、第三者へ上の立場の者の意図的な覚え込ませである。

 実習の目的とも言える技能=腕前の修得は、技能=腕前を磨こうとする本人の努力であり、教育のように他人が刷り込む事は決してできないのである。

 本稿に関する事は『職業訓練原理』にも紹介しました。

 (次回は「「勤労の尊重」では実習は尊重されない」です。)

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 実習の意義 8.実習=経験は創造性の源泉である 2月25日

 前回に実習の有効性として5点を挙げたが、実は今回述べる第6点目が最も重要な実習の有効性としての「創造性の源泉」である。

 1+1=2という正解を答えられるようになる事は学習の成果として重要な事である。しかし、この回答の意味は科学としての真実を学んだに過ぎず、そこには学習者の創造性は表れていない。「雪が溶けたら何になる」の問いに、「水になる」との科学的答えには創造性はないが、「春になる」の答えに創造性があるのである。テキストによって「科学」の成果を学んでも新たな創造性は生まれない。そこからは発明・発見は生まれないのである。

 発明・発見は、テキストに記されて無い事であるから意味があるのである。その新たな知識は実習の意義として述べた経験の中から収得した新たな知識から生まれるのである。実習を実験と読みかえても良いが、新たな方法で行わなければ新たな発見は起きない。

 学校の実験のように結果が想定された実験では、新たな発見は起きない。どこかの市が最新の機器と設備を揃え、ノーベル賞受賞者を講師に招き、科学者の卵を養成するという高校を設立したと聞いたが、その卒業生からどれほどの学者が出るのか見守りたい。私は大学に入る「学力優秀者」は多数出るだろうが、その先は大差は無いと推測している。何故なら、これまでの優れた科学者の中にそのように恵まれた環境で学んだ者がいたようには思えないからである。むしろ、困難な環境の中で、創意工夫して努力されたからこそ大きな仕事を為されたのではなかろうか。創意工夫は自らが可能な実習=経験の中でしか困難であるといえよう。

 世界の人々が世話になっている携帯電話の小型化の最大功労者は、電子回路の小型化の技術者ではなく、電池ケースの小型化を成し遂げた、小学校しか出ていない岡野雅行さんである。多くの技術者がいる大企業でもなし得なかった開発を、岡野さんは、それまでのモノ作りの経験の知識を集大成して成し遂げたのである。さらに、糖尿病患者や子供に望まれた「痛くない注射針」の発明者でもある。痛くない注射針もまた世界に先駆けた現場の経験から生まれた発明である。

 岡野さんのような現場職人(労働者)が今日の技術革新に果たしている例は数限りなくあるが、もう一例を挙げれば、近年の小型化しているデジタルカメラや携帯電話に付属しているレンズの安価な製造に貢献したした人として、生田靖雄さんがいる。生田さんは父の後を継いだレンズ研磨工である。従来は複数枚のレンズを組み合わせて複雑な“レンズセット”でなければきれいな写真が撮れなかったが、「非球面レンズ」の設計と製造をパソコンとご本人の経験で完成させた職人である(『朝日新聞』2007年7月15日)。そのお陰で、安い、良く写る小型カメラができるようになったといえる。

 このように、職人の経験を基にした開発にお世話になっていることは限りがない。実習は創造性の源泉だ、という意味はこのようなことである。

 今回の論に関することは、『職業訓練原理』にも記しています。

 (次回は「技能のすり込みは出来ない」です。)


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 実習の意義 7.教育論では気付かない実習の有効性(2月23日)

 本連載の最初に紹介した『教育学大事典』における「実習」の定義として「技法を身につけたり、機械の使用法に慣れたり、知識を応用実践するため」が挙げられていたが、学力中心、知識中心の学校教育では「技法を身につけたり、機械の使用法に慣れたり」することが重視されるとは思えない。せいぜい「知識の応用実証」が教育専門家があげる実習の意義であろう。これらは教育学における実習の定義だと割り切るべきである。職業訓練学では当然ながら様々な有効性を定義できる。

 指導員の作成した仕事の見本は絶対的で、簡単に訓練生、受講生が真似できるものではない。一方、知識の認識は教師の水準に近づくのに困難ではない。したがって、知識の教育と異なり、実習の有効性は複雑である。教育の経験から見えない事がいろいろとあるのである。実習の真の意味は「方法の一形式」ではなく下記の点がある。

 実習はアナログ評価によってしかその意味を確認できない。このことと関連して実習指導の特異性がある。その実習は手取り足取り、人間的な接触がなければ困難であることが第一である。1+1を教えるのに手取り足取りは要らない。ここに師弟関係の差異がある事が分かる。例えば1+1を教える時に覚えが悪いと言ってゲンコツすれば生徒が教師を尊敬するはずがない。しかし、作業を指導した通りにやらなかった時のゲンコツは、指導員が訓練生に行うと褒美のように感じられる場合もあるし、危険を排除するための認識の強化ともなり、訓練生が教室でのように反発する事はない。

①技能の習得
 実技・実習の目的の一つは技能の習得であることは間違いない。ただ、これまでわが国では、職業訓練は技能の習得だけを目的のように主張してきた傾向がある。そのため、偏見や誤解を生む根拠となった。確かに、練習を繰り返し、上達すれば考えなくとも体で仕事ができるようになる。これを技能という人もいる。勿論、技能の解釈も多様にあるが、少なくともただ手を動かしていれば技能が身に付くというようなことはない。教育学者が言う「技法を身につける」こともこれと同類である。方法を習得するためには繰り返せばよいだけではない。技能を身につけるためには意識的な努力と方法を為すための認識が必要なのである。
 中学校の技術科でプロジェクト法により、考案させた設計を基にモノづくりさせても、技能を習得していない子ども達に自信のつくモノづくりができるはずはない。技能を習得していないため、むしろ失敗することが多く、逆に技術科を嫌いになる要因になっている。

 ②経験をすること
 実技・実習はその「行い」そのものが大切である。「聞くと見るとは大違い」とか、「百聞は一見にしかず」と言うが、より大事なことは自分自身で体験することだ。ようやく、最近この意味が教育学的にも認められるようになり、体験学習とかインターンシップとか言っている。経験することは、重要な学習方法の一つである。簡単に言えば実技・実習のことである。職業訓練界では昔から現場実習、応用実習の言葉があり、文部科学省が最近の社会情勢から意図的に使い始めたインターンシップという言葉を真似する必要は無いはずである。
なお、『教育学大事典』にて重視している「理論の応用(確認)」は実習では殆ど不可能なはずである。理論のとおりにモノは出来ないからである。むしろ、理論と実際の差異、乖離を発見する事が重要な意味となる。この事が⑥の「知識の収得」の有効性となる。

③全体の把握
 理論はその部分だけの理論に過ぎないが、モノづくりは一つの理論だけではできず、複数の理論が複雑に関係している。従って、モノの完成のためにはモノ全体のイメージがなければ決して上手くできず、そのためには全体の理解が必要だということである。モノづくり、実習を行う過程で製品を作っていく全体のイメージを次第に理解できるようになる。
 モノづくりは初めから終わりまで全体にわたっての仕事をイメージ出来なければ良いモノは完成できない。いま実施している仕事の前はどうだったか、次の仕事はどのようになるのか、ということが理解できなければ今の仕事も失敗になる事がある。いわゆる「段取り」を考えた仕事が重要となる。そのため、全体の理解が実習によって備わる。
 徒弟制度だけでなく、近代産業に関わる実技・実習にしても同じ事である。頭による構想と手による実行が無ければモノづくりは完成しない。
 なお、全体の理解とは、モノの構造・機構を理解することにもなる。あるいは、部品の材質の意味や形の意味を理解できる。このことは、先に第5で紹介した「モノ壊し」により修得できる。

④仕事の練習
 スポーツであっても練習では成功している事が、本番の試合で失敗する事もある。しかし、仕事は失敗できない。失敗しないためには練習しなければならない。その練習の時に失敗しても可能なように練習する事が実習である。
 したがって、実習は実際の仕事に近いほど実習の意味が高く、経験の意味が高い。これは現場作業の経験とも言えるが、OJT(Onthe Job Training)でもある。わが国のOJT論は、業務と考える事が強いが、英語の意味では学校の実習場で行う実習もOJTである。先にも記したが、このことをインターンシップと言っているに過ぎない。
 実際に習う事が実習であるので、実習は仕事のシミュレーションだといえる。実習は「仕事の模倣」と言っても良い。更に言えば仕事の練習である。

 ⑤組織人としての態度の形成
 実習には一人で出来るものもあるが、多くのモノは他の者と協力しなければ完成しない。社会の仕事はほとんどが組織人(職業人)として他人との協力関係によって遂行されている。「鑿と言えば槌」、のように、仕事に関する諺はたくさんある。その諺の中に仕事の関連性が示されている。また、そのように関連を考えて仕事をしなければならないことを意味している。
 このような他人との協力関係の態度を習得することも実習では可能である。近代的な仕事は、一人でする仕事は工場の中にはほとんどない。他の労働者との共同作業が欠かせない。その協同性を学ぶのも実習の意義である。
 組織人としての共同意識や行動の必要性が実技・実習を通じて自然に身に付く。その能力の形成は、職業人としての人間関係を維持する能力の習得になる。このためにはコミュニケーションが必要だということにも連なる。
学校教育では協調性の育成のため、あるいは規則を守らせるために「生活指導」をしている面がある。しかし、職業訓練の場ではそのような生活指導でなく、「職業人生活の指導」である。これは実習の中でできるので、生徒も素直に聞けるのである。この指導は私のような実習に自信が持てない者は職業経験のあるベテランの指導員には到底太刀打ちできない。

⑥知識の収得
 自分で行っている体験を通してそのプロセスに生じた現象を知識として認識することができれば、自分で得た知識である。実技・実習は知識そのものを印象深く学ぶことができる。知識の理解は頭脳だけの暗記的方法では習得しにくいが、実習によって学ぶ場合は良く理解できる。知識もただ知っているだけでは役立たない。必要な場面で素早く必要な知識が引き出せるためには、実習などと関連づけた理解が必要なのである。このことは、知識の学習法において五感を同時に利用して指導することが好ましい、とする理論を職業訓練界では昔から実践していたことを意味している。
 換言すれば、実習はテキストに記されていない事、説明して貰えなかった事を経験する事になる。それは極めて重要な知識となる。この知識をどのように使うかが大事な次回に述べる課題となる。
 国語力が弱ければ電気工事士試験は合格しない。一次に学科試験が有るからである。学科試験対策として学科のみを、実技試験対策として実習のみをそれぞれ別に練習すると成果はそれなりに上がる。私が担当した中卒者の訓練で、実習と学科を組み合わせたカリキュラムに組んで指導してみると、それまで2年生でしか合格していなかった電気工事士試験に1年生でも合格するようになった。実習を活かしたカリキュラムの編成の有効性と共に、実習による知識の習得が行われている証拠である。
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 知識の修得を不要だとは言わないが、それと劣らぬ実習の意義があることを知識のみしか学習していない人にも理解して貰いたいと思う。

 今回の論に関することは、『仕事を学ぶ』にも記しています。

 次回は「実習=経験は創造性の源泉である」です。

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 実習の意義 6.実習の評価はアナログ評価 2月19日

 1+1=2…これは正解なので、丸、○、10点、と付けるのが知識のテスト評価である。正解は「2」意外には無いのである。このような評価をデジタル評価と宗像元介先生が名付けた(『職人と現代産業』)。デジタル評価は、テキストが正しいとする教育観であり、回答には正解か誤答の二つしかない、と考える。ペーパーテストの根源がここにある。評価は単純であり、より多くの知識を持っている者が評価する。認識せずともプログラムを組めばコンピュータでも出来る。評価の処理を合理的に行うためにはコンピュータの利用は欠かせない。すると、評価はペーパーテストに限る。更にマークシートが大学入試センター試験に応用され、この頃より大学の序列化と、学生の意欲喪失が始まったのは周知の通りである。

 ペーパーテストの自分の回答が正しいか否か直ぐには自分で分からない。正解を見て、それと見比べて可能なのである。つまり、デジタル評価の問題は本人では評価が困難なことである。しかし、正解が分かればデジタル評価は極めて簡単な事でもある。詩や小説の感想にもこのような評価をするようになったことを文学者が嘆いている。デジタル評価では文学作品の評価が困難なことと同様に、実習の評価も困難である。

 実習は何某かの作品を完成させる。最近の流行語の「モノ」である。重要な視点として、宗像先生は「王選手の一本足打法もモノである」といった。そこには「創造性」があるからである。知識の理解には創造性は無い。ところが、モノの完成度の良し悪しは正か否の二者択一ではない。誰もが“凄い”と感じる傑作から、誰がみても「下手だな」という愚作まで、その間には無限の評価結果が並ぶ。これを「アナログ評価」と宗像先生は名付けた。

 実習の評価は「主観的」にならざるを得ない宿命がある。しかし、ベテランが見ると良し悪しは分かるのである。正否ではない。名人ほど作品を売りに出さないのはこのためである。わが国の学校では「科学的でなければならない」ため、主観の評価を排除する。このため、実習の評価を避けるようになる。評価が出来ない実習は、科学主義的になったわが国の学校の教育内容としては忌避されるのは必然である。技術科の場合も作品の評価ではなく、ペーパーテストの結果で評価される。作品を上手く作っても、テストが悪いと通知票は悪いのである。こうして創造性ある生徒は潰される。

 ところが、実習の作品の評価は、実習の課題である「モデル」を見て、それに如何に近いかによって自分で評価出来るのである。他人の作品とも見比べて、その人の技量の上下が自分でも分かる。アナログ評価は学習者、受講生が自らが可能なのである。そして、モデルに近づけるためにどうすれば良いのか、指導者のやり方を見て真似たり、指導を受けたりする。試行錯誤と創意工夫によりモデルに近づくために努力し、熱心になる。そして上達を実感する。このように自分で自分の作品を評価出来る事が実習の楽しさにも連なるのである。

 バンクーバーオリンピックの男子フィギュアースケートが終わった。高橋大輔選手が銅メダルを取った事、織田信成選手も靴紐が切れるというアクシデントを乗り越えて7位、小塚崇彦選手も8位の入賞を果たしたことに先ずは喜びたい。明日以降の女子のフィギュアースケートにも期待したい。

 ところで、時間や距離を争う競技の結果には誰も問題を感じない。フィギュアースケートの点数評価にも日本人は納得してしまう。しかし今回も、高橋選手の次に滑ったジョニー・ヴュアー選手の評点にブーイングが出たように、外国の会場ではよく見かける光景である。この観衆の反応は、日本人が点数を信じる一面と対照的である。フィギュアースケートの点数は王選手のフォームを審判が点でジャッジする事と同じなのである。つまり、審判の主観を点数にしているに過ぎない。その点は演技を細分化して採点し、総合点を出している。部分の得点を集めても全体を纏めて見る印象とは異なるのは当然である。芸術展は当然として、技術点であっても基本的にアナログ評価のはずである。そして客観性を高めるために複数の審判により評点を平均化しているだけである。高橋選手は4回転の着地を失敗してもその後に立ち直り、素晴らしい演技で乗り切ったが、解説者が「ジャッジがどういう採点をするか」と言っていたように、アナログ感覚をデジタル化していることに本質があるといえよう。

 戦後の教育界に蔓延した科学主義は、戦前の「大和魂」で戦争に負けた反動でもあったろうが、誰も否定できない数値への盲信と表裏の関係にあるのである。その数値を出す裏にある根拠を疑わない。実習の意義の評価は科学主義では、数値だけでは困難である事を理解しなければならない。テレビ放送までもデジタル化したが、教育界での評価が最も早くデジタル化したのである。そしてペーパーテストの評価による「学力」主義になった。このことの問題を再認識すべきといえよう。実習の意義は科学主義だけでは評価できないことを。

 今回の論に関することは、『職業訓練原理』に詳しく記しています。

 (次回は「教育論では気付かない実習の有効性」です。)

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 実習の意義 5.実習は何故に楽しいか? 2月18日

 不登校者も高校中退者も短期大学校生も職業訓練校で自らの人間を形成している。人間形成は一朝一夕に出来るはずはない。石の上にも3年である。続けなければ何事も成就しない。訓練が続くという事は、先ずは実習が楽しいからである。それでは、何故に実習は楽しいのだろうか。

 (1)初めて体験する喜び 人間だけでなく動物は、初めて接することに大きな興味を示す。逆に警戒し、恐怖心も生じるが、危険なものでない限り関心の方が強い。赤ん坊は何でも手に取り、口に入れようとするものである。そして、初めて体験することには今までにない経験をするという喜びが生じる。ただ、人間にはそれまでの生育歴から個別の器用さが備わっており、指示通りに出来る者と出来ない者がいる。もし、不器用な者で課題がうまくできなければ、モノづくりや実技・実習がいやになる者もいる。実習に興味を持つような課題の工夫により変わるものである。

 (2)具体化の喜び モノづくり(プログラム作成を含む)、実習は当然ながら具体物の作成を目的にしている。その作成が人間の活動の成果として完成するわけであり、無から有形が出来るという完成の喜びとなる。当然、材料が、実習により全く別の形の異なる完成品となるわけであり、そのことに対する喜びである。これは、“モノの創造の喜び”ということもできる。しかし、思った通りにモノは完成しないし、また思うよりも時間がかかる。そのギャップを乗り越えようとすることが努力目標となる。その目標を達成することがまた喜びとなる。

 (3)発見をする喜び モノづくりを成功させるためには一定の法則がある。そのモノづくりをしているプロセスで自然の不思議さを学ぶことができる。それはテキストにある知識として学ぶこととは異なり、実際の目の前で起こる自然現象を発見することである。人は新たな発見をする事に喜びを感じる。モノづくり、実習においてもそのような発見が連続する。モノづくりによる発見は、手で学ぶことであり、あるいは体で学ぶことである。しかし、頭を使わないモノづくり、実習があるわけがなく、当然同時に頭も使う。

 (4)個性を発揮できる喜び 理論の学習は誰がやっても同じ答えになるし、ならなければ間違いである。しかし、モノづくりによる製品は絶対に同じモノは出来ない。NC機器で作成しても厳密にいえば同じモノではない。(ただ、プログラムの場合は同じモノになる可能性がある)。完成したモノは作成者の器用さや、様々な知識、経験等の集大成としての製品であるため、まさにその個人の個性の結果であるといえる。自分自身をその製品に表わすことによる喜びがあふれてくる。これが「モノをつくる」喜びであり、実習の喜びである。

 (5)人間的喜び 人間は自分の全ての機能を使うことに喜びを感じる。つまり、一部の器官だけではなく、全身の(五官)を働かせる活動が気持ちを豊かにする。大脳でいえば感性をつかさどる右脳と知識をつかさどる左脳の両者を利用しなければ実習はできない。実習は、全身を使わなければうまくいかない事が多い。したがって、実習が終えると、自分の全身を使えたという喜びが生じる。つまり、実習とは全人的な能力を発揮するほど可能性が高くなり、そのために喜びが湧き出るものである。そして、上達の程度を自己確認出来ることも自分の行為を作品という現実により自分で評価できることが喜びとなるのである。
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 教育は子どもの興味・関心から始めねばならないという教育学の原則を職業訓練が実習によって実践しているのである。ここに職業訓練の意義、実習の意義がある。このことは実習が楽しいことが起点となっていることに疑いはない。

しかし、子ども達はこのような屁理屈は関係ない。子ども達は楽しいから積極的になるのである。「好きこそ物の上手なれ」である。好きになった実習を更に上手にやるために知識の習得にも意欲的になるのである。ここを見誤ってはならない。知識が有るから仕事が出来るのではない。仕事を上手くやりたいと思うから知識も付くのである。要は先ずは仕事を、実習を好きにさせる事である。これが実習指導の要諦である。

 ところで、実習が楽しいのはモノを作ることだけではない。その前に、実は物を「こわす」実習こそ極めて楽しいのである。これは子どもの時に誰でもが経験したことであろう。「モノこわし」の実習は作る事とは異なった意義が有るが別稿を参照して頂きたい。ある学習塾が「○○大分解」と称して実験(実習)をアピールして電車内で広告していることは、生徒募集のキーワードとしてだけではなく、正しい学習指導だと言えるのである。

 今回の論に関することは、『職業訓練原理』にも記しています。

 (次回は「実習の評価はアナログ評価」です。)

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 実習の意義 4.大学生でも意識は変わる 2月16日

 2月8日に紹介したように、経団連と連合との共同アピールでは「雇用・能力開発機構の職業能力開発短期大学校の拡充整備」が要望されている。この要望は若者の就業支援のために高校生に対する職業訓練への期待があるためと言える。職業訓練短期大学校修了生の調査によると、「訓練の充実感」は下記のようである(「技術・技能訓練受講生の実情と職業観」参照)。

  充実していた あまりしていなかった
 友人や教師との関係 61.7% 31.0%
 実験・実習の経験   71.9 26.0
 専門科目の学習   65.6 32.9
 卒論・卒研の経験   49.0 48.2

 一般大学生の上のような意識を知らないが、「専門の学習」の評価が、おそらく職業訓練短期大学校修了生の実習への評価=70%より高いとは思えない。ここに職業訓練の意義、実習の意義が有るのである。ある卒業生は、「私が在学中に学んだ事でいちばん役立っているのは、3現主義です。“現場で現実に現物を見る”だと思いましたが、実際に実習等で自分自身体験することによって、本の中だけで学習するより体に定着しているように思います。」と述懐している。学んだ事への評価は、社会に出てからの自信と誇りを形成しているはずである。このことを経団連も評価していると解釈されるのである。

 職訓短大生とかかわって、事業仕分けで注目を得ている私が関わった職業能力開発総合大学校(以下「職業大」)ついて紹介してみたい。この職業大の学部に入ってくる新入生も普通の高校卒業者である。当初は新入生としての差異は他の大学生と差異は無いはずである。その1年生の筆者へのレポートに「高校時代までは職業や労働という言葉から逃げ回っていた」という意見に似たことが記されていることが少なくない。

 しかし、職業大を選択して入学した学生は、どのような理由かに関わりなく、職業問題、労働問題を中心とした学習が必須となる。一般大の教職科目に相当する「能力開発専門科目」のカリキュラムが1年生から実施されているのである。

 1年生の私に対するレポートに「ニートは日本にはいない!」とのようなフレーズが記されていた。ここに職業大の成果が表れている。このことは『働くための学習』に節タイトルに用いて紹介しているが、このような発想は、一般大学の学生には困難だろう。私も考えなかったことである。世の中の常識的言葉を根底から覆す発想が実習、職業訓練を学ぶことによって生まれるのである。

 簡単に解説すると、ニートNEETの「T」は“Training”の意味だが、わが国では職業訓練が極めて少なく、また、職業訓練の受講生の就職率は高いのでニートにはなっていないはずだ、というのである。このような発想が浮かぶのは職業大の意義でもある。それにしても、若者の実情を見事に言い表しているといえよう。

 また、青山法子氏が調査した「学生の『教育』と『訓練』の認識に関する研究」によると、「教育」と「訓練」の両者を峻別して考えるのが一般大学生であり、両者をあまり厳密に区別せずに“おなじようなもの”と鷹揚に考えているのが職業大の学生である。同年代の学生とは異なった職業大学生の意識が反映していると言える。

 また、一般大学の教員志望の学生が行う教育実習に相当する「実務実習」を全国の職業訓練校において4週間、指導員業務を担当する実習をしている。一般大学の教育実習生がストレスを感じて帰って来るのに比し、職業大の学生はそのようなストレスは意外と感じていないようだ(松本和重他「実務実習の実態に関する基礎研究」『職業大紀要』2009年3月)。この「実務実習」を終わって帰って来る殆どの学生は実習に自信を持って帰ってくる。それは現地の職業訓練校で訓練生達をも楽しませる事ができたという自信でもある。「指導員もまんざらではない。指導員になりたい。」という意識が強まっている。これも、知識の教育のみではない、実習という五体を媒介とした援助である実務実習の成果だと言える(このことについては松本和重先生が職業大の紀要に投稿中であるので、完成したら紹介したい)。これは重要な職業大の意義である。(このような、学部学生の教育訓練だけが職業大の目的ではなく、他にも全国の職業訓練指導員の研修、国際協力、職業訓練の研究等の重要な課題があるが、これらの意義については論ずるまでも無いと思うのでここでは省きたい。)

 ようやく職業訓練を重視すべきとの論が出てきたが、職業訓練の意味を深く理解して職業訓練の政策を考えて頂きたいものである。

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上の論に職業能力開発総合大学校の能力開発専門学科で一番若く、学生達の心理を良く理解している松本和重先生が下記のようなコメントを寄せて下さいました。

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リーマンショック以降、本当に厳しい雇用失業情勢となっていますから、離職訓練の受講生は心中おだやかではないはずです。
それでも、離職者訓練を担当した実務実習生が自信を持ってしまうことはスゴイ事だと思います。
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しかし、なぜこのようなことが起こるのだろうと思うのです。
学校は「人格の形成」のために教育すると、大きな目標が掲げられています。
学校の勉強が好きなら良いのですが、そうでない人もいるでしょう。
好きではない人に、抽象的な「人格の形成のための教育」の重要さを説得するとき、先生が権威的になってしまうシーンが思い浮かびます。
学生は、そんな先生や学校に一定の距離を置いた関係を構築するのではないかと思うのです。
一方、訓練校では、(基本的に)やりたい仕事をやれるように導く仲間なのではと感じます。
これまでの経験では、受講生と指導員の間に、仲間の要素を感じてきました。
受講生は、年齢も、経歴もバラバラで、中には以前、指導員より高給取りたっだり、高い社会的ステータス(大企業の幹部)であったりする方もいますし、豊富な経験から、ある分野に詳しい人もいます。
ですから、指導員をしているときには、「教える分野は受講生よりも詳しいが、それ以外は、受講生の方が詳しいだろう。」
と思っていましたし、先輩から「そう考えるもんだぞ」と、指導されてきました。
受講生も我が子のような指導員であっても、同じような感覚を抱いていたでしょう。
学校の先生の「ナメられないように」する感覚と、指導員の「ナメられないように」教える分野を磨く感覚は違うと思うのです。
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当然、指導員であっても、校の方針や指導員の都合を押しつけるような指導をする人もいるでしょう。その場合は、仲間とは感じてもらえません。
学校の先生の中にも、生徒の個性を認め、受入れてくれる先生もいます。
ですから、指導員が良い、先生が悪いと言うことではなく、学校・訓練校に存在する、受講生の個性を受入れ、尊重する考え方が大きな違いであり、さらに加えるならば、仕事したい人が仕事できるように教える違いもあります。
いずれも考え方が生み出した違いであり、これが鍵なのだと思うのです。
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私の知っている訓練校には、お互いを尊重し合う関係があると思います。
指導員と受講生は、まるで仲間のように、一緒に課題を解決していきます。
(離職者の場合)社会からも家族からも、以前の会社の友人からも一時、疎外感や孤独感を強く感じていたりしていますが、訓練校は、受講生の存在を承認し、「あなたはあなたでよい」と大事にしてくれます。
受講生は、居場所ができ、仲間意識が芽生え、徐々に次に進む気持ちに切り替わるのではないかと思うのです。
訓練校で、訓練する内容は「人格の完成」のための「人生において、いつか重要になるだろう」抽象的なものではなく、近隣の職場で求められている極めて現実的な職業能力です。
(職業訓練は肉体労働をするための技能を身につけるだけの所と思ってもらっては困ります。偏っています。
ご存知の通り、仕事は事務系・技術系・・色々あります。仕事ができるよう職業能力を身につけることが職業訓練です。)
人生に必要な事を学び、自らの人格を形成していくことは、訓練校だけではなく、職場や社会の中で育まれていくものです。
訓練校は具体的な1歩を与えてくれるところなのでしょう。
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さて、「実務実習の実態に関する基礎研究」の論文では、実務実習生の書いた有意義な出来事には、「受講生に仲良くしてもらったこと」「指導員が親切にしてもらったこと」が多く登場します。
きっと、受講生からも、先輩指導員からも仲良くしてもらうようなお互いを認め合う環境だったのでしょう。
その中で、実務実習生は、最善をつくし、自信を得ているのだろう・・・・
(そんな、お互いを認め合う場で働くことは、楽しいのだろう・・・)と思ったところです。
※宮本太郎著「生活保障」や、NHKの「無縁社会」でも、お互いを認め合うことや、承認の場の重要性を取り上げているところを見ると、現代において、訓練校のような機能は、新しいものなのかもしれません。
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 (次回は「実習は何故に楽しいか?」です。なお、在職労働者、転失業者の職業訓練の意義は言うに及ばないので、私論を省きます。)

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 実習の意義 3.高校中退者が“変身”!? 2月14日

 「徳川慶喜」がNHKの大河ドラマで放映されていた頃、慶喜の身辺を警護したという新門辰五郎の七代目、杉本仁一さんの次男礼二郎君について「跡継ぎできた ピアスの次男、修業中」として次のように紹介された(『朝日新聞』平成10年5月11日)。

 次男の礼二郎さん(18)は、茶髪にピアスをしている。オートバイも好きだ。/工業高校に進んだが、勉強は嫌いだった。毎朝、家は出るものの、学校には足が向かない。一年が終わるころ、学校から転校を勧められた。/「若いうちは遊ぶことだってある。まあ、それも二十歳までだな」。仁一さんは、職業訓練校に通うよう勧めた。/礼二郎さんが変わったのは、その後だ。

 杉本さんは鳶(とび)の頭(かしら)だ。礼二郎君はその後鳶の仕事をいろいろと学んでいるという。残念ながら職業訓練校での礼二郎君の活動ぶりについての紹介はないが、職業訓練に通ったことが彼の考えを変えた転機であった筈である。工業高校との差異である仕事の伝承を目的にしている職業訓練が彼を変えたのである。

 私が、職業訓練大学校を卒業して勤めた長崎総合高等職業訓練所(今日の長崎ポリテクセンター)では、転職者訓練も実施していたが、私の電気機器科は中卒者対象の2年制で、私を含めて4名の指導員で担当していた。私の赴任と一緒に入所した20数名のクラスには、高卒者が1名と高校中退者が1名いた。

 高校中退のM君は私より実技の能力は上だったので私が教えて貰ったことも多く(私が最初に担当したのは講義だった)、“教え子"とはとても言えない。M君は、今は電気工事店の立派な社長をやり、今でも年賀状をくれる。

 礼二郎君に似た高校で非行に走り退学させられたり、M君のような中退者が職業訓練校に来た生徒が、人が変わったようにまじめに実習、訓練に取り組むという話は指導員研修でよく聞く話である。仕事が、実習が人を変えるのである。そして、仕事、実習を指導する指導員の生徒に対する対応があるから若者は変わるのである。学校の教師ではない職業訓練校の指導員による職業を媒介とした人間形成である。

 高校進学率の上昇の一方、中退者数は無視できない。その比率は近年変わらず、平成19年度年は2.1%(72,854人)である。この39%が「学校生活・学業不適応」とされているが、果たして学校とは、学業とは何なのだろうか。彼らにどのように対応したのだろうか。結果、彼らは職業能力を身に付けないまま社会に排出される。そればかりか、「高校中退」とのレッテルを貼られる。彼らが生きるための職業能力の付与を支援することが今日の重要な課題となっている。

 この高校中退者の問題に関する報道は進学者の問題に比べて多くない。文部科学省も中退者については行政の対象外として対策を取っていないようだ。しかし、前回紹介した中学校3年生の不登校者だけでもそうだが、高校中退者だけでも受け入れは不可能な程の定員枠しかないのが公共職業訓練校の現情である。

 そのような社会的な不運者に、極めて少ない数ではあるが「若者の就業支援」として職業訓練が、実習による人間形成が行われていることを注目すべきである。実習を中核とした職業訓練は人を形成する重要な働きがあるのである。

 なお、今回の論は『生きること・働くこと・学ぶこと』にも紹介しています。

 (次回は「大学生でも意識は変わる!」です)

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 実習の意義 2.不登校者が職業訓練校で皆勤賞!? 2月12日 

 大学卒業者の就職が困難な実情の報道がにぎやかであるが、より以上に深刻なのは学歴の低いままに社会に出る人々である。近年の標語である「学校から社会への接続」論にはこの視点が欠落しているのである。最も困難な者は今日のような高校進学率が高まった時代は中学校のみで社会に出ざるを得ない若者である。(高校進学を拒否している人を除く。)

 平成20年度では中学校で終わるものは2.2%である。それでも2万6千人強である。公共職業訓練校における中卒者養成訓練は、昭和30年代には職業訓練の中核であったが、2005年度の定員で1,650人と急激な減少を見ている。この人数は、中卒者全体から見ると僅かな率(約0.14%)であるが、この子供達を無視する訳にはいかない。彼らもまた、職業能力を身につけて働く権利を有しているからである。

 ところで、平成19年度の不登校者は129,250人であるが、中学3年生はその内32.9%である。文部省の統計では義務教育修了者は100%となっている。不登校者も義務教育修了者という統計にも疑問があるが、これはおいておいて、彼らは心機一転、高校での学習を期待する者が多い。ところが、中学校で進学調書を作成して貰えない子がいるようだ。少し古い話であるが、そのような中にK君がいた。

 中学校で不登校児だったK君はある県立の職業訓練校に入学した。K君が不登校だったことが中学校から連絡が有ったわけではない。ある日、担任の指導員がK君と話している時にK君から告白したのだ。K君のノートはすばらしく整理され、講義も実習も優れていたから指導員はK君が不登校者だとは微塵も思わなかったのだ。とても高校に入れない生徒とは思えない。実習が遅れた級友も手伝い、指導員の助手の役目も果たしてくれた。そしてなんと、K君は皆勤賞を取ったのである。卒業して就職した会社で無くてはならない人材になっているという。また、指導した先生が持っていない職業資格を取って頑張っている。更に大学での学習を目指し、訓練校の経歴は学歴に換算されないため定時制高校へも通ったという。

 この話を私は指導員の研修会で必ず紹介するが、すると必ず「私も同じような経験をしている」との話が出てくる。中学校で不登校の子が職業訓練校で皆勤賞をとったK君は例外ではないのである。

 この事実は、学校では生きられなかった子どもが、職業訓練校で息を吹き返す例である。“学歴”社会の中で、高等学校へ進学できない子供達、また、高校を“やむを得ず”中退してしまった子供達に長い職業生活のための真の希望の光を指し示すことは、公共職業訓練の一つの大きな意義となっている。つまり、公共職業訓練は学校で見捨てられた子供達に職業訓練により、社会で生き抜くための身を守る職業能力を修得させることが充分可能であり、この事により真の人間形成を施している、といえる。その核心には実習があるから可能なのである。学校で不可能な人間形成が実習にはあるのである。

 実習が人間形成として重要な働きが有ることを是非とも理解して頂きたいものである。

 なお、今回の論は『生きること・働くこと・学ぶこと』『働く人の「学習」論(初版)』にも簡単に紹介しています。

 本論を濱田桂一郎氏が注目して紹介してくださっています。http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-66c2.html
この「実習の意義」シリーズは、心に残る言葉が多く、思わず引用したくなります。権丈節とならぶ萬年節シリーズということで・・・、

として小生の論を引用し、最後に

職業教育訓練が、社会で生き抜くための身を守る職業能力を習得することが、なにか「真の人間形成」とは逆のものであるかのような紙の上のインテリの浅薄な発想でものごとを考えることの落とし穴を、見事に指摘しています。

と紹介してくださいました。

 (次回は「高校中退者が”変身”!?」です。)

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 実習の意義 1.チャーチル元首相もブロック塀作りを楽しんだ!(2月10日)

 「はじめに」において、大人も実習は楽しいものだ、と述べたが、そのような話の象徴的な人にイギリスのかってのチャーチル首相がいる。 チャーチル元首相は多忙な仕事の合間におそらくレジャー、日曜大工感覚でブロック塀作りを楽しんだのであろう。しかし、イギリスは資格社会であった。チャーチル元首相の作業を見たブロック積みの職人から「我々の仕事をとるな」と抗議を受け、やむなくチャーチル元首相は作業を断念した、という有名な話がある。

 アメリカでの研究生活の経験がある村瀬勉先生(NASAの委託を受けて月の石を初めて合成した物理学の元職業能力開発大学校教授)によると、アメリカの大学教授は大工仕事が好きで、休みにはよく家の内装の改築、修理をしているという。中には、自分で建てた家に住んでいる教授もいるという。この話も日曜大工がレジャーになっており、趣味と実益を兼ねた大工仕事を教授が楽しんでいるのである。

 ここで、「実習」とは何か、と問が出るはずである。私の定義は本連載の最後に提起することにして、ここでは「実際に習うこと」としておこう。それは頭脳による知識の認識だけではなく、体を使ってものごとの経験が必須となる。特に職業訓練の場合は実際の仕事が望ましい事は当然である。日曜大工も実習も大差は無いと考えることにする。

 ところで、日本はヨーロッパ諸国のような職業資格社会ではなく、仕事をして職人から抗議を受けることはないが、政治家や大学教授が家造りをした、と言う話を聞かない。このような差異は同じ政治家、大学教授であってもそれまでの家庭環境、経験の差に依るのではなかろうか。わが国では殆どの政治家、大学教授は普通高校卒業者であることである。

 わが国の普通高校は、普通教育が100%である。一方、アメリカの高校は総合制であり、大学に進学する者であっても必ず職業科目の必修がある。職業科目では実習が有るのが普通である。 このような、職業に関する学習、実習の経験、実習への親近感が社会に出て目の当たりにする作業、労働に対する意識に表れることは不思議でない。作業が楽しめる人間になっているか否かである。作業が楽しめるということは、作業の難しさを体験しているはずであり、仕事への畏敬の念も備わるはずである。これは「勤労」ではない。

 青少年時代の経験、体験、実習は、成人になってからの意識に大いに差異が出てくるのは当然と言えよう。このようなわが国の過去の教育が政治家の職業訓練への偏見を作っている、ということがなければ良いと願うものである。

(次回は「不登校者が職業訓練校で皆勤賞!?」です。)

2月7日  実習の意義 0.はじめに

 職業訓練の中核的訓練は実習である。時間的にも5割前後を占める。多い職種では7割も実施している。

 近年の職業訓練への批判は、間接的にはわが国の普通教育に対する誤解が土壌に有るためであり(このことについては近く論文が出るのでその時に紹介する)、直接的にはその結果として対極である実習の意義が充分に理解されていないためと考える。教育の問題については既に論じてきた(著書参照)ので、実習の意義を再検討してみたい。

 ところで、実習と言わなくても、子ども達が体を動かし、何か作業をしている時は生き生きと活動している。子どもに限らず大人であっても犬小屋を造るのは楽しいのではなかろうか。教育は子ども達の興味関心から始めなければならない、ということは教育学の鉄則である。しかし、わが国の教育では子どもが興味を持つ実習が極めて軽視されていることも誰もが認めることだろう。それでは実習を正しく考えられないはずである。教育学では実習を次のように定義している(『教育学大事典』、第一法規)。

 「実習とは、技術の教育において、技法を身につけたり、機械の使用法に慣れたり、知識を応用実践するために、加工や処理という実際にはたらきかける教育方法の一形式である。」

 上の定義では実習の意義も、実習が楽しい意味も説明されていない。最も問題なのは、「実習は…方法だ」と結論づけている事である。これでは、実習を重視している職業訓練の意味も理解されない。何故なら、方法であれば、実習は何かに取って代わられ、廃止しても良い、ということになるからである。

 今日では大半の人が普通高校から大学へ入り、大半の政治家も、お役人も実習の経験のない人である。実習の経験が無ければ実習の意義が分からないのは当然である。実習の意義が分からなければ、学力という点数に表れるペーパーテストの結果しか関心はない。学力テストの国際結果は政治問題になるが、技能五輪の結果は簡単な報道で終わる。今後どのように変わるか分からないが、民主党の「教育」政策、人間形成策は高校の「無償化」以外では何が有るのか不明である。

 実習を再評価し、職業訓練を再評価し、人間形成策を根本的に変えて行くべきことが今後のわが国には必要と考える。その根本には実習があると考えるので、実習についての意義を考えて頂きたく、僭越ながら本ホームページで私論を述べて見たい。

 以後、不定期になるが実習論について私論を記すので、ご批判頂ければ幸いである。
(次回は「チャーチル元首相もブロック塀作りを楽しんだ!」です。)

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